「嫌い」と言えない息苦しさについて傾聴ではどう向き合うべきか

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日本人は幼いときから、「人の悪口を言ってはいけない」と言われて育ってきていると思います。その延長線上で、大人になってからも人の悪口を言ってはいけないということで、特に会社での人間関係に苦労している方も多いかと思います。知らず知らずのうちにちょっとした好き嫌いですら言いづらい雰囲気になってしまい、窮屈な思いをしていたりしませんか?本来、ちょっとした好き嫌いなんて普通にあると思います。

 

ですが、「嫌い」に関してはそれがなかなか言えない風潮があります。確かに改まって、「嫌い」を周りの人に伝える必要もないのかもしれません。むしろそれを言って傷つく人もいることを考えたら言うべきではないのかもしれませんが、「嫌い」という感情もあなたの立派な感情です。これを抑え込んでしまうのはあなた自身が辛くなるだけです。ここに日本社会の息苦しさを強く感じます。

 

そこで今回は、「嫌い」を伝える重要についてご説明いたします。これを読めば、空気を読むことが何かと重要視される昨今、場を乱しがちな「嫌い」をなぜ大切にしなければならないのかが理解できます。

目次

「嫌い」と言えない息苦しさについて

「嫌い」と思う自分を責める弊害

最近、「嫌い」な人や物を伝える人を見かけなくなったのは、多くの人が「嫌い」という感情を持つこと自体、嫌悪するようになったからかもしれません。しかし、その風潮は自然の法則に抗っていて、さまざまな弊害を生んでいます。  例えばこんなことがあると思います。

 

職場で、多くの人が上司や先輩や同僚のことを心の中で嫌いと思いながら、嫌ってはいけないと自分にいい聞かせ、好きにならなければならないと自分を責めているのではないか。

 

人間関係に苦しみ、嫌いな人とにこやかに過ごすことが強要され、それどころか好きになることが求められている。でも、それができず、仕方なく退職する。

 

嫌っている自分を責め、嫌いになってしまう自分は人間として未熟な人間なのではないかと自分を非難しているのではないか。

 

嫌っている自分を認めることができず、ときには自己嫌悪を感じているのではないか。

 

自分の感情を見つめることができず、自分の感情を表に出すことができないのではないか。

 

これはかなり苦しいことに違いないです。そんな苦しい状況を多くの日本人が耐え忍んでいるのではないでしょうか。

「嫌い」は成長するために必要な感情

人は、さまざまなものを好きになり、そして嫌いになって自分自身を作り上げていきます。例えば、嫌いな科目があり、嫌いな先生がいたり、嫌いなクラスメートがいる。嫌いだったのにいつの間にか好きになることもあるだろうし、好きだったのにいつのまにか嫌いになることもあるだろう。 いずれにしても、そうやって子どもから大人に成長していきます。

 

食べ物についても、趣味についても、人に関しても、生き方に関しても、好き嫌いが必ずあります。好き嫌いはその人の価値観の本質を表すものです。好き嫌いを中心に、人は自分の価値観や人生観を築き上げていくのです。

「嫌い」という感情はどうしてタブー視されるのか?

「嫌われたくないので、嫌わない」という意識が最大の要因ではないかと思います。つまり、人の心の中には嫌い」な物(人)=悪者という考えが根底にあるため、その対象が自分になることを恐れているのではないしょうか? しかし、そのような「嫌い」の捉え方に違和感を感じます。

 

「嫌い」というのは、何かを全否定することでも断罪することでも排除することでもなくて、「嫌い」というのは、あくまでも個人の主観です。個人的な価値判断でしかないものであって、社会全体としての価値判断ではありません。それでも「嫌い」が社会的にタブー視されてしまうのは、「みんな同じものが好きであるべきだという考えがあるからこそ、自分と異なるものを排除する。個人的な『嫌い』という感情であれば、排除の対象にはならない」という風潮があるように思えます。

「みんな仲良し」という思想はあなたを追い詰めてしまう

「嫌い」という感情を持つことは決して不健全なことではないですし、また一般的に常識的とされる考えや行動が健全とは限らないです。むしろ、「みんな仲良し」という思い込みがあなたを追い詰めてしまう強烈な同調圧力でもあるのです。集団のなかには、誰だって必ず好きな人とそうでない人、合う人と会わない人がいるものです。普通は誰かに嫌われ、他の人には好かれるというパターンだと思いますが、なかにはみんなから嫌われる人もいます。それが自然なんです。

 

「みんな仲良し」という思想は、人を嫌うことを禁止し、無理やりみんなをひと塊にします。日本の集団主義のもっとも質の悪い部分だと思います。これこそが、日本社会を息苦しくしている所以です。

人と人は分かり合えないという前提を持つこと

「みんな仲良し」という思想は集団主義の中では前提条件になっていますが、この前提を手放さなければなりません。人と人は理解し合えないという前提を持つべきです。理解し合えると思うから、「あの人は私のことを分かってくれない」と思って、不満に感じるんです。ですが、理解し合えるはずがないと思っていれば、そんな不満を持たなくて済みます。そもそも、「あの人は私のことを分かってくれない」と考えること自体、甘えでしかありません。分かってくれるはずのない相手に対して過度に期待しすぎているだけです。

 

お互い分かり合えるには、同じような価値観を持っていて、他人と自分が繋がっていると考えることです。だから、分かってくれないと考えてしまうんです。人それぞれ、別の価値観を持っていて当然であり、理解し合うことなどできるはずがないのです。理解し合えずに、衝突が起こったり、お互いに嫌いになったりして当然なんです。あなたが生きている社会とは元々多様性に溢れた人たちで構成された社会なのです。

「嫌い」という感情を排除しない社会

「嫌い」という感情は人にとって一番正直な感情であるし、またそこから人が形成されている以上、「嫌い」という感情をタブー視するのではなく、向き合うべきです。そこで大切になるのが、「嫌い」という感情が排除されない社会だと思います。みんなが自分の「好き」と「嫌い」を大事にし、他人が自分の好きなものを嫌ってもそれを許容する社会であるべきです。 本当はこういう社会こそが、広い意味での多様性を認める社会ということになるのだと思います。

「嫌い」という感情を傾聴ではどのように向き合うべきか

傾聴をしていて常に感じることは、人それぞれであるということです。ひとつの事柄に対して、クライアント一人ひとり想いや感じることが違います。それでも傾聴ができるということは、傾聴自体が人の多様性を尊重しているということなのです。目の前のクライアントの想いや感じることに対して、そっと耳を傾け心の声を拾う作業。ここに正解も不正解もないです。

 

当然、心の声には、「好き」と「嫌い」という感情はあります。ですが、否定することもなく、判断することもなく、いきなり解決を求めたりしない世界。ただひたすら今の感情を味わい、すべてが許される時間。これが傾聴の醍醐味です。

 

「嫌い」という感情の持って行き場もなく、右往左往しながら罪悪感で押しつぶされそうになる。傾聴はこの苦しみにどっぷり浸かることを良しとしています。だから苦しんでることも否定することはありません。堂々と苦しんだらいいのです。あなたひとりでこの苦しみに耐えられないのであれば、傾聴カウンセラーが一緒にこの苦しみのどん底まで降りてくれて、寄り添ってくれます。

 

このときにあなたは孤独じゃないけど、孤独。孤独だけど孤独じゃない。これはあなたがカウンセラーと一体化する瞬間です。このような力強い安心感を感じることができたとき、きっとあなたのなかで決着が付き、「嫌い」という感情に対して数ある感情のなかのひとつに過ぎないということを悟ることになるでしょう。

 

併せて、傾聴とは?の記事もご覧ください。

 

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